酒とバラの日々

They are not long, the days of wine and roses

好奇心は猫も殺す

大阪や札幌で痛ましい事件があった。

加害者が絶対的に悪いという上で考えたい。

それは危機に対する嗅覚を養うということだ。

好奇心は人生を豊かに渡っていく上で良いスパイスとなる。

しかし、見誤ると多大なリスクにさらされることになってしまう。

この辺りのバランス感覚について最近読んだ本にこんな記述があった。

「変な言葉を使う人には気をつけないといけない」

加藤諦三氏の本にあった。

なんというタイトルかは忘れてしまった。

情緒的に満たされた子供の言葉であるという。

これが本当に子供の口から発せられたかは僕には確認の取りようがないが、妙に納得した。

根本的な部分で情緒的に満たされていない心は、ちょっとした甘言に弱い。

根っこに強烈な寂しさがつきまとうからだ。

そして、ちょっとした甘言の裏にはリスクがつきものだ。

情緒的に満たされていればまず寂しさから甘言に酔うということがない。

好奇心を持ってもこれは怪しいと何となく察知する。

まさに君子危うきに近寄らず、なのだ。

親は子供の一挙手一投足を管理することはできない。

だから子供の情緒を幼いうちに満たすことが、何より危険から身を守るすべということになる。

被害者の親がどのような人なのかは報道からは知る由もない。

なおかつ、子を喪って悲しんでいる人にあなたの育て方が、とは言いたくはない。

しかしまた、子供が幼いうちに生きる知恵を身につけさせることも親の責務である。

そして、その知恵とは世間でいう「お受験」などではなく、もっと人間的なコミュニケーションである。

どんなことがあろうと、子供を肯定してやることだ。

信頼感を築くことだ。

事件を知り「親育」が必要だと感じた。

親が親であり、子が子であることが許された家庭の子供は幸福である、と思う。

NHK 欲望の経済史 第5回 経済バブルについて

経済バブルの厄介さは大衆が群れて熱狂する先が見せかけの幻であることだ。

実質経済で生まれた利益が見せかけの幻に投機されていき幻が消えると投機されたお金も消える。

後には何も残らない。

そして幻は幻であり、必ず消える。

熱狂で目が眩むと大衆は容易に人の話を信用する。

ただの木彫りの熊を、金かプラチナで出来たものと簡単に吹き込まれる。

周りの人間もそれを金の熊だと言っているからである。

自分が損をする訳にはいかない、という心理も働く。

前述した通り、幻に投機されたお金は消えるのだ。

銀行に預金されたお金はゼロになる。

それが国家単位で起きれば戦争しかない。

大衆は常に愚かだ。

だからルールが必要になる。

しかし、世界の経済的なルールは容易には決められないだろう。

一人一人が経済というものを理解しているべきだと感じた。

それでもバブルは防げないだろうが。

Old kills children

老人の暴走。

若い人や子供が犠牲になる。

世の中を縮小しなきゃいけない。

地方は活性化を叫ぶが活性する地方なんてもはや不要だ。

どうして高度経済成長で拡大した生活圏を維持しなくちゃいけないのか。

必要があって拡張したのだから、今も必要があって縮小すればいい。

年寄りが車を運転しなくても回る社会にすればいい。

そうすれば子供が死ななくて済む。

Old kills children.

移民について

今、企業は人手不足を補うために移民を推進しようとしている。

しかし、欧州の先例を見る限りそれは愚策と言わざるを得ない。

なぜなら、移民政策とは政治的な事項であるのに対し、企業の求めるそれは単に経済的な事項であり、その齟齬のリスクを社会が負わなくてはならないからだ。

現在は企業的に好景気であり、人手が欲しいが、それが過ぎ去れば彼らは当たり前に解雇する。

外国人は解雇されても元の国に戻らず、日本に居続けるだろう。

日本に順応できる外国人ならばいいが、同じ出身国同士でコミュニティーを作り、日本語も使えず、日本の福祉に頼りながら生活する外国人が百万単位で誕生すれば治安やその他の負担がどうなるかは火を見るより明らかである。

しかし、企業は利潤追求という名の下に将来のリスクなどおかまいなしで今のニーズを満たそうとするだろう。

決して彼らが解雇した外国人の責任を負うことなどしない。

そのコストを払うのは行政であり、市民なのだ。

この構造は公害に似ている。

しかし、公害は科学的な対処で減らせるが、移民の場合、相手は人である。

減らそうと思って減らせるものではない。

送り返すにもそれ相応の力が要る。

受け入れる時は様々な美辞麗句で飾れるし、国際的にも好印象で捉えられるかもしれない。(いや、今はまだ、と付け加えよう。その内、愚かな国だと罵られるようになるかもしれない)

しかし、送り返そうとすれば、どんなに非難を受けるか分からない。

国内に日本語の話せない、文化的背景も価値観も全く違う(そして、大体は日本人よりも体格が良く力が強い)民族の一大コミュニティーが現れればどのような状況になるかは歴史を振り返れば分かるだろう。

世が世ならば、日本を支配しかねない勢力だ。

それに対し危機感を抱かず、現状の経済的なニーズのみで移民を訴える人は愚かとしか言いようがない。

 

労働力不足は、一時的な移民政策で補えるという安易な(愚劣な)やり方では本質的解決にはならない。

それはその後の国の在り方を変える大きな議題である。

求められているのはパラダイムシフトであり、移民ではない。

企業と社会、国民の今後の在り方を問う根本的なテーマだ。

それを安易な小手先の方法で何とかしようというのは、暴力で他者を支配しようという発想と大差ない。

それはサルの発想であり、知恵のある者の考えることではないだろう。

気負いもせずに

例えば空を眺めたって、空気を吸ったり、水を飲んだり、それだけで幸せを感じられる。

満足できる。

不満に支配されてなければ、扇情的な何かに支配されてなければ実は簡単なのかもしれない。

ちょっと怖い話(不思議系)

お題に乗ってみる。

iPhone6s時代(今は7plus)、家の近所を散歩していた。

秋の夕暮れ時。というより暗くなりかけていたので、黄昏時と言うべきか。

公園の低木の紅葉が綺麗だったので写真を撮った。

するとそこに・・・・・・。

その公園には人はいなかったし、写真を撮った時にも人がいたら外して撮るはずなのに(個人情報時代怖い)、ぼんやりと人影が写っていた。

顔はぼんやりとして分からないが、洋服を着ていて佇んでいるような感じ。

当時知り合いに霊感が強い人がいたから相談したら、一人に見える人影は二人重なっているような感じだったらしい。

近くに高校があって、その高校に関係しているようだが、特に害意のようなものは感じられない、と。

何か悪い影響があるわけじゃないが、消した方がいいとのことで、消したので載せれません。

しかし、心霊写真も昔はフィルムの感光なんじゃないかとか言われていたが、デジタル時代にも撮れるもんなんだな、しかもすぐ消せるし便利。

最近の心霊系テレビ番組とか、ネットで見る動画とか、簡単にそれっぽいものを作れちゃうので、それ込みで楽しんでいるが、ガチで撮れると怖いというより不思議。

心霊写真も撮れるよ!iPhoneならね!←