好奇心は猫も殺す
大阪や札幌で痛ましい事件があった。
加害者が絶対的に悪いという上で考えたい。
それは危機に対する嗅覚を養うということだ。
好奇心は人生を豊かに渡っていく上で良いスパイスとなる。
しかし、見誤ると多大なリスクにさらされることになってしまう。
この辺りのバランス感覚について最近読んだ本にこんな記述があった。
「変な言葉を使う人には気をつけないといけない」
加藤諦三氏の本にあった。
なんというタイトルかは忘れてしまった。
情緒的に満たされた子供の言葉であるという。
これが本当に子供の口から発せられたかは僕には確認の取りようがないが、妙に納得した。
根本的な部分で情緒的に満たされていない心は、ちょっとした甘言に弱い。
根っこに強烈な寂しさがつきまとうからだ。
そして、ちょっとした甘言の裏にはリスクがつきものだ。
情緒的に満たされていればまず寂しさから甘言に酔うということがない。
好奇心を持ってもこれは怪しいと何となく察知する。
まさに君子危うきに近寄らず、なのだ。
親は子供の一挙手一投足を管理することはできない。
だから子供の情緒を幼いうちに満たすことが、何より危険から身を守るすべということになる。
被害者の親がどのような人なのかは報道からは知る由もない。
なおかつ、子を喪って悲しんでいる人にあなたの育て方が、とは言いたくはない。
しかしまた、子供が幼いうちに生きる知恵を身につけさせることも親の責務である。
そして、その知恵とは世間でいう「お受験」などではなく、もっと人間的なコミュニケーションである。
どんなことがあろうと、子供を肯定してやることだ。
信頼感を築くことだ。
事件を知り「親育」が必要だと感じた。
親が親であり、子が子であることが許された家庭の子供は幸福である、と思う。