酒とバラの日々

They are not long, the days of wine and roses

移民について

今、企業は人手不足を補うために移民を推進しようとしている。

しかし、欧州の先例を見る限りそれは愚策と言わざるを得ない。

なぜなら、移民政策とは政治的な事項であるのに対し、企業の求めるそれは単に経済的な事項であり、その齟齬のリスクを社会が負わなくてはならないからだ。

現在は企業的に好景気であり、人手が欲しいが、それが過ぎ去れば彼らは当たり前に解雇する。

外国人は解雇されても元の国に戻らず、日本に居続けるだろう。

日本に順応できる外国人ならばいいが、同じ出身国同士でコミュニティーを作り、日本語も使えず、日本の福祉に頼りながら生活する外国人が百万単位で誕生すれば治安やその他の負担がどうなるかは火を見るより明らかである。

しかし、企業は利潤追求という名の下に将来のリスクなどおかまいなしで今のニーズを満たそうとするだろう。

決して彼らが解雇した外国人の責任を負うことなどしない。

そのコストを払うのは行政であり、市民なのだ。

この構造は公害に似ている。

しかし、公害は科学的な対処で減らせるが、移民の場合、相手は人である。

減らそうと思って減らせるものではない。

送り返すにもそれ相応の力が要る。

受け入れる時は様々な美辞麗句で飾れるし、国際的にも好印象で捉えられるかもしれない。(いや、今はまだ、と付け加えよう。その内、愚かな国だと罵られるようになるかもしれない)

しかし、送り返そうとすれば、どんなに非難を受けるか分からない。

国内に日本語の話せない、文化的背景も価値観も全く違う(そして、大体は日本人よりも体格が良く力が強い)民族の一大コミュニティーが現れればどのような状況になるかは歴史を振り返れば分かるだろう。

世が世ならば、日本を支配しかねない勢力だ。

それに対し危機感を抱かず、現状の経済的なニーズのみで移民を訴える人は愚かとしか言いようがない。

 

労働力不足は、一時的な移民政策で補えるという安易な(愚劣な)やり方では本質的解決にはならない。

それはその後の国の在り方を変える大きな議題である。

求められているのはパラダイムシフトであり、移民ではない。

企業と社会、国民の今後の在り方を問う根本的なテーマだ。

それを安易な小手先の方法で何とかしようというのは、暴力で他者を支配しようという発想と大差ない。

それはサルの発想であり、知恵のある者の考えることではないだろう。