酒とバラの日々

They are not long, the days of wine and roses

日本人の文明論

何にせよ、どんな国だって自分の国に対する矜持はあるだろうし、自分が何人であるかを心のどこかに意識しているだろう。
日本人ばかりが自意識過剰ではないと思う。
その上で、日本人の持つ繊細さ、視野の狭さ、翻って細かいことに対する集中力は内向き過ぎるかもしれない。
しかし、それが殊、芸術に向かうと非常に爽やかで軽やかになる。
油絵にしたってどこかあっさりしていて、そこが今の日本人には物足りなく感じるかもしれないが。
内面では深く物を感じるが、それをあまり外に表現したがらない、外国人にはシャイに映ったり、奥ゆかしく感じるものだろう。
その内向きな性質が、外へ爆発的に発散されると異常な熱狂として現れる。
そして、そのような極端な性質を抱えていることを、日本人の大半は批判し反省するよりもむしろ誇っている。
元々、冷静に自分たちの文化や文明を批判し、それを改めることで文明を発展させるという意識が日本人には薄いように思う。
なにか風まかせというか、なるようになれ、とその場の空気、勢いに任せてやってしまう。政治を見ても、明治から何も変わっていないように思う。政治の場にこそ、そういった批判的精神が宿るべきなのにもかかわらず。
しかし、不得手なのは仕方がない。しかもそれが圧倒的多数に及ぶのだから、一世代や二世代で何とかなるものじゃない。
では、その内向きな繊細さでもって、文明を批判的に改めるにはどうしたらいいのだろう。
これは基本的なことに立ち返るがコミュニケーションではないだろうか。
別な文明、言語の人間とコミュニケーションを意識して行っていくこと。
相手の話を聞くこと。
ときにしっかりと主張すること。
そしてそのためには、今目の前にいる人と意識してコミュニケーションを行うこと。
話を聞き、伝えること。
言葉にしないことが伝わることも日本人の美徳の一つとしてあるが、その感覚は最上のものではなく、特殊なものだ。
それがあることが素晴らしいのではなく、その関係性を築くことができたのが幸運なのだ。
それは日本人の繊細さ、機微がそうさせるのだろう。
しかし、そこはあえて、言葉にしていく。
阿吽の呼吸に甘えることなく、コミュニケーションを大切にしていくこと。
それこそが、日本人の内向きな繊細さでもって文明を発展的に成長させる鍵ではないか。
否定と批判は違う。
批判はより良くしていくためのコミュニケーションだ。
それが国民全体として認識できてようやく、日本人の繊細さを一歩進めることができるのではないか。